Upcoming Exhibition

「無題」実験シリーズより / フォトグラム / 1940年
グラフィックデザイナー マックス・フーバー写真展 “もうひとつの世界”
2025年11月25日(火)〜12月10日(水) 11:00AM〜6:00PM 最終日は4:00PM まで
このたび、スイス生まれのグラフィックデザイナー、マックス・フーバー(1919-1992)の写真展「もう一つの世界」を開催いたします。
若い頃はシュールレアリズムの画家を志すほどの描写力をもっていたマックス・フーバーは、チューリッヒの美術工芸学校に入り写真を学びました。バウハウスのフォトモンタージュやエル・リシツキー、ヤン・チヒョルト、ラズロ・モホリ=ナジらの仕事を知り、同校を先に卒業したワーナー・ビショップとスイス軍の徴兵時に親交を結び、その影響を受けて写真家を目指したこともあります。
本展では、1940年代にフォトグラムの手法で制作したものに加え、1950年代のイタリア、1960年代の日本で捉えた光景など、30数点を紹介いたします。これらの写真作品には、彼が後年に手掛けた企業広告ポスターや装丁作品に素材として用いられているものもあり、マックスのグラフィックデザイナーとしての視点と、バウハウス以降の造形に対する独自の世界観を体現しています。
日本の文化に関心があったマックス・フーバーは、1960年に東京で開催された世界デザイン会議に、イタリア代表としてブルーノ・ムナーリとともに初来日します。この席上で、会議の運営側デザイナーとして参加していた河野鷹思と意気投合、お互いの仕事を瞬時で理解し合うグラフィックデザイナーとしての交流が始まりました。翌61年、ミラノAGI(Alliance Graphique International=世界グラフィック連盟)に日本代表で参加した河野と再会したマックスは、留学先のストックホルムから合流した河野の長女、葵と知り合います。のちに彼女はミラノにあるマックスのスタジオでイラストレーターとして仕事をするようになり、二人は結婚しました。
葵・フーバー・コウノはマックス亡き後も南スイスに住みイラストレーションとデザインの仕事を続けており、今回の展覧会に合わせて来日します。また、本展の広報デザインはフーバー夫妻と親交のあるアートディレクター細谷巖、細谷ゲン両氏です。
今なお色褪せることのないグラフィックデザイナー、マックス・フーバーの「もう一つの世界」を、是非ご高覧ください。
会期中、本展にむけて解説をいただいた、美術史家の伊藤俊治氏にお話しを伺う時間を予定しています。トークイベントにつきましては当サイトでお知らせをさせていただきます。 ー Gallery5610 ー
協力 : 葵フーバー河野, Guido Giudici(La Consarc, Chiasso Switzerland)
後援 : 在日スイス大使館
アートディレクション : 細谷巖
グラフィックデザイン : 細谷ゲン
● Max Huber (マックス・フーバー/1919−92/グラフィク・デザイナー)
1919年スイス、ツーク州のバール生まれ。
高校卒業後、チューリッヒの美術工芸学校でアルフレート・ヴィリマンに学ぶ。この時期にヴェルナー・ビショフ、エミール・シュルテス、ヨゼフ・ミューラー=ブロックマン、カルロ・ヴィヴァレリ、ハンス・ファルク、ハンス・ノイブルク、マックス・ビルなどの面々と出会う。
1940年にイタリア、ミラノのボッジェーリ・スタジオのグラフィックデザイナー募集に、イタリア語が全く話せないながら志願をし、1年ほどボッジェーリ・スタジオで働く。そこでは、ブルーノ・ムナーリ、ルイージ・ヴェロネージ、アルベ・シュタイナー、レモ・ムラトーレ、ソール・スタインバーグたちとの出会いがあった。
1941年、イタリアの政治情勢の悪化によりスイスに戻る。翌年マックス・ビルに誘われ、ハンス・アルプやリヒャルト・パウル・ローゼなどによって構成されるスイスの具体派芸術家集団「アリアンツ・グループ」のメンバーに加わる。
1945年10月、ミラノへ戻り、1947年に開催された第8回ミラノ・トリエンナーレでアルベ・シュタイナーと共にグラフィックデザインを手がけた。ジュリオ・エイナウディの経営するエイナウディ出版社刊行の出版物のグラフィックデザインをも任される。ミラノの製紙会社であるブレンドゥリの最初のブランドイメージを確立。同年、マックス・ビルとランフランコ・B・ティラヴァンティと共にミラノのパラッツォ・レアルで「アブストラクト・コンクリート」(抽象芸術と具体芸術)展を開催する。
1950年、イタリアの老舗百貨店、ラ・リナシェンテのために新しいロゴを制作。ブルーノ・ムナーリ、ジッロ・ドルフレス、ジャンニ・モネとアタナシオ・ソルダティと共にミラノで具体芸術運動(MAC)の立ち上げに参加。この時期、建築家兼デザイナーであるアキッレ&ピエル・ジャコモ・カスティリオーニと兄弟との親交を深める。カスティリオーニ兄弟が建築設計を手がけた作品は、イタリア国営放送のライ、石油会社のエニや製薬会社のモンテカティーニ(後モンテエディション)など、イタリアを代表する企業の展示デザインプロジェクトなど多数あり、フーバーがそのグラフィックデザインを担当した。
1954年、イタリアの名誉あるデザイン賞、「コンパッソ・ドーロ賞」が始まったその年の「プラスチック・テキスタイル」部門で金賞を受賞。
1960年、ブルーノ・ムナーリとともに東京で行われた世界デザイン会議に参加、64年には、日本デザインコミッティー主催による「マックス・フーバーのグラフィックデザイン」(担当:勝見勝・会場構成:仲條正義・会場:銀座松屋)を開催した。1970年大阪万博ではランフランコ・B・ティラヴァンティの設計したOECD館にグラフィックで関わった。1987~88年には、平和国際展(東京)と富山国際ポスタートリエンナーレに参加するなど日本との縁も深い。
1947年のミラノのリナシタ・スクールに始まり、1959年〜62年までウマニタリア、1970年代にはブルーノ・ムナーリとニノ・ディ・サルヴァトーレが経営するスクオラ・ポリテクニカ・デル・デザイン(スクオラ・デザイン専門学校)、1978年〜84年までの6年間、スイス、ルガノのチェントロ・スコラスティコ・インダストリエ・アルテッチェ(CSIA)でグラフィックアートを教えるなど、長年に亘り教育活動にも尽力。
1992年11月16日、南スイスのメンドリージオで73年の生涯を閉じた。